南山舎代表が綴る15年経過報告

15年経過報告その1『情報やいま』2001/10月号より

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「2001年頌」をいただく
あなたは、出版社「南山舎」を起こし、編集スタッフと共にみずみずしい企画と編集で、八重山の新しい文化潮流を作り出しました。今年創刊10周年の情報誌「やいま」をはじめ「八重山手帳」「やえやまGUIDE BOOK」は日日の生活に清新な息吹を送り、また「やいま文庫」「八重山に立つ」シリーズなど、その出版活動の一つ一つが、八重山の魂を伝えるものです。これを感謝し、頌えて、記念の盾を贈ります〉

 9月2日、関東の八重山出身者でつくる東京しかあざ会(羽鳥秀男会長)から「2001年頌」をいただいた。
 
 
帰郷の決心は些細なことだった
 ああ、15年たったんだなあ、と思う。帰郷して15年。島を出て東京で過ごしたと同じ15年だが、こっちのほうがずっと良かった、と改めて思う。
 帰郷の決心は些細なことだった。帰省していたときに雨が降ったのだ。前触れもなく降り出した雨にまず驚き、立ち上ってくる土の匂いに昔を思い出し、何事もなかったようにすぐに元に戻った空の色に驚き、…そして帰郷を決心した。その時、忘れていた素晴らしいものを思い出して、なんとしても帰らなければ、と思ったのである。

 この「風が見える島」「身近にあることの感動」のことをいちばん初めに話し合ったのは新城剛さんだったが、剛さんはいまはもういなくなってしまった。
 振り返ると、15年はアッというまだが、ただ時間の襞に入り込むきっかけさえ与えられれば、そこはかなり充実した空間だ。それもこれも八重山に帰ってきたおかげだと思っている。

「八重山手帳88」

1987年12月に発刊された八重山手帳。

1987年12月に発刊された八重山手帳。


 帰郷して翌年の暮れに「八重山手帳88」を出した。八重山の感動を持ち歩きたいと思って、それを手帳の形にしたのである。何人かに手帳のことを話したが、私の懐を慮って誰も賛成する者はなかった。「手帳は銀行から貰えるから買う人など誰もいないよ」
 退職金は残り少なくなっていたが、自分のためにもつくりたかった。少しでも経費を浮かそうと、カバーの中に手帳本体を入れ込む手作業は印刷屋ではなく、自宅に別々に送ってもらって家族で夜なべしてやった。

 「八重山手帳」は歓迎された。八重山を中心に売れ、「旅」に出ている子や知り合いに贈るという形での広がりもあった。奄美や屋久島や名護から「自分たちの地域の手帳もつくりたい」と申し出があり、地域のために頑張ってください、とエールを送ったのだが、いまだに実現の声を聞かないのは、小さなマーケットではなかなか採算がとれないということなのだろう。
 「沖縄手帳」をつくりたいとオークスからも挨拶があり、こちらは沖縄全域で売れているようだが、中味が「広く浅く」なったのは致し方なし、か。痛しかゆしだが、しかし「八重山手帳」はいつまでも「八重山手帳」でありたい。

 いいものを供給すれば需要はついてくる、というのが「八重山手帳」を創刊しての感想。もちろん地域の暖かさに支えられてのことである。
 この15年間、出版物に関して言えば、やりたい、と思ったことの多くは実現できた。おそらく大儲けをしようなどと考えなかったからだろう。大儲けが条件でなければ、選択肢が広がり、実現性が増すという単純な理由。が、万年資金不足の身には大失敗は許されないから、アンテナを張り巡らして頭を絞って絞ってアイディアを考える。これがまたよかったと思う。
 もうひとつはスタッフに恵まれたことだ。スタッフはバランスよくいつもたいがい八重山出身者と郡外出身者が半々。八重山を掘り、発見するためには外からの新鮮な視点が必要だし、しかしそれだけに走らない、現実をふまえた地元の眼もまた重要だ。

 さて、しかし年1回の手帳の刊行だけでは生活できない。自宅の一部を学習塾にして生徒をとった。それが4年くらい続いただろうか。
 その間、八重山毎日新聞の連載記事「学校訪問記」「ぼくら少年探検隊」をつくり、同新聞社資料室の分類体系を構築し、もうひとつ準備していたのは、八重山の新聞の記事索引を作ることだった。

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